ー2025年5月24日
さらに付け加えます。足し算、引き算ができるのなら小学生でもわかることを述べましょう。
魏志倭人伝では、帯方郡から不弥国(飯塚あたり)までを約1万7百里とされる一方で、帯方郡から女王国(ヤマタイ国)までは約1万2千里とありますから、不弥国から女王国までは約1千3百里とされていることがわかります。
女王国畿内(大和)説は、不弥国から「南」というのは誤りで「東」に行くことにしょうというものですが、それでは不弥国から船で東の瀬戸内海を行くとして、どのあたりが約1千3百里のところとなるのでしょうか。3世紀当時の中国の支那里は1里=0.375kmですから、1千里は375kmに当たりますが、倭人伝で約1千里という、韓国の釜山から対馬までの現在の実際の距離は40kmとされますから、そもそも支那里は使い物にならないとわかります。そこで「倭人伝里」の釜山・対馬間1千余里=約40kmを水行の指標とし、陸行は奴国・不弥国間の約百里=約20kmを指標として、不弥国から瀬戸内海を東に1千3百里行ったとすると、山口県の周南から光市が上限とわかります。とても畿内(大和)には至れません。夢のまた夢・・・妄想というしかありません。
倭人伝が、帯方郡の使者の常駐する伊都国あたりからストレートに山鹿あたりとみられる女王国に陸行せず、わざわざ九州の東側の沿岸を南下したとすることから、九州の至る所に女王国に敵対する勢力が根をはっていたことがうかがえます。女王国の北の21の国の名からもそれは知られます。
2025 5/24
ー2025年5月17日
5/14.15の「コギト」ではまだ説明が足りなかったかもしれませんので、もう一度だけ要点を絞って補足しておこうと思います。
まず、投馬国(都萬神社のある西都原)から「南のヤマタイ国(ヒミコの都)へは水行十日、陸行一月」。これについては、今から15年前の高校用教科書に即した図録に、女王国九州説の難点として、「これでは、海上に出てしまう」とされていましたが、これを見た私は、学者の中にはこんな頭のよくない方がいるのか(失礼)と呆れました。こんなことを誰が信じるのかと。海に出てしまうとは、すごろくなどの二次元世界の発想に過ぎず、事実は、三次元世界だということが忘れられているからです。先日述べたように、古代の水行=船旅は、何度も船着き場(津)に着くたびに下船、乗船をくり返しながら、津々浦々を経巡る海岸線をいわば半ループし続ける旅であり、昨年の4月に記したように長い大隅半島の海岸沿いにループしつつ回り込めば、湾の奥の隼人や霧島に上陸できます。しかし、陳寿の情報提供者となった中国人の船客は海続きであるから、まさか北上しているとは気付かず、南行したと伝えたと推察されます。隼人あたりとするのは、その左隣の鹿児島が、ヤマタイ国の強敵である狗奴国の領域であったからです。そこから、獣のように山谷の道なき道を、草木をかきわけつつ歩み、日が落ちて野宿することを繰り返して、1か月ほどで到着するヤマタイ国とは玉=瑞=すい=たい(大漢語林)=台であることから、山鹿、玉名であることがわかります。なぜなら、すでに述べた研究者による歩行実験の結果の「1日7km」を目安に、山里では少し長い距離の可能性を加味して、隼人から山鹿までの250kmの「獣道」を、食料を探し、火を焚き、食して(夕と朝)、寝る時間を1日10時間位としておさえて計算すると、ほぼ30日ほどになりますので。まさに倭人伝の「1か月」に適合します。古代の三次元の「南への旅」の実状がこれといえましょう。理に適う。
次に、これが真のポイントですが、「女王国から東の海1千里を渡ると、別の倭人の国に至り、その南に侏儒(小人)国があり、女王国から4千里。・・・倭国は絶海の島である」という部分。侏儒とは小人=小柄の黒目黒髪のバンコ族の金氏(「小さい虫=まむしが本質である金色の犬・バンコ」がその隠語と解せるので)とわかります。
この場合、大和に女王国を想定すると、東の海とは太平洋ということになり、別の倭人の国が千葉沖の太平洋上にあったことになりますが、そのあたりは深い海溝で、島や国は存在しませんから、文として成り立ちません。この倭人伝の記録は、ヒミコの国が九州にあってはじめて整合性が保てます。この点だけでも、「ヒミコの国は九州」であることの論拠となり得るといえます。しかも、魏はほぼ同時に東倭(大屋の古大国)王も倭王と認定していたことを忘れてはならないでしょう。
さらに近江の琵琶湖東岸には、魏の公孫氏討伐の折に軍功をあげて遼西に冊封され、やがて極東の最強軍事勢力として急成長してゆく慕容氏の主流派が、ひそかに大切に倭国生まれと解せる幼い貴種の王子を育んでいたと推定されます。
私の大学の先輩に、NHKのスペシャル・プロジェクトの元チーフ・プロデューサーであった方がおられ、お会いした当時はバリバリの某部長でしたが、ご自身の作品の本になったものをいただき、撮影期間中の苦労話やこぼれ話をうかがいました。その苦労のかいあってか、それは日本中を熱気の渦に巻き込み、社会現象となったと記憶しております。腹がすわって、目が鋭い割に、ムッシュ・ユーモレスクな方で、気骨、知性とも高いことは一言話せばわかりました。先輩っていいなと思える方のお一人です。
あの当時のNHKは文句なしに知的、文化的に高いレベルの方が多かったように思われます。一体いつから今のようになってしまったのでしょうか。
2025 5/17
ー2025年5月15日
今日、はじめて気が付きました。あの方や、その周辺の方々は、あれを知らなかったのだということに。誰でもが、私くらいの知識はあるだろうと思っていたのが間違いだったのだと。あれとは、昨年の4月16日の「コギト」に記した中の2点のことで、1つは、水行の意味(古代の状況の中での、古代人に寄り添った理解)、2つ目は、「女王国から東に1千里の海を渡ると別の国々があり、いずれも倭人と同種で、さらにその南に侏儒国(「小人国」)があり、それは(女王国から)4千余里の地」という魏志倭人伝の記録の中の「海」。
1つ目については昨日簡単に説明しました。
2つ目についても、この際、説明しておきたいと思います。その海を太平洋と誤解されている疑いがありますので。その海とは瀬戸内海のことで、古代のある時期から渡来人の侵入コースの中心となり、また海外交通の海路要路となったコースです。わが家の墓のある岡山の東山の一角からよく見晴らせる海ですが、特に私が一人で遊んだ操山の一角は、古代には西からの外敵の船での侵入を監視ばする地だったということです。瀬戸内海を九州から東に航行すれば大阪湾から、大和川に侵入し、そのまま大和に入ることができます。淀川河口も、古代には大きな潟湖だったとされています。そのあたりには、九州勢力とは異なる倭人が居住し、さらにその南の大和の葛城には侏儒国があったという。それは小人国と解されているようですが、隠語で、小柄な黒目黒髪の倭人が住んでいたということでしょう。その氏族については別にいつか詳しく記したいと思っています。さらに言えば、その地の東南に裸国、黒歯国があり、(女王国より)船で1年かかるという。それは古代から鯨を捕る和歌山南端の氏族のことで、この褌姿を象徴的に中国の陳寿(魏志倭人伝の著者)が裸人と記したと考えれます。黒歯国も歯を黒く染める風習をもつ、中国の江南の呉からの移住者と類縁関係があった氏族と推定されます。魏志の異様な描写も冷静に検証を加えれば、なるほどあり得ることと納得されます。
こうしたことは世の常識と思っていたので、敢えて説明しませんでしたが、どうも、そうではないらしいので、ほんの少しだけですが記しました。
要するに、その海は瀬戸内海のことです。そいうわけで、別の倭人国が海(太平洋)の真っ只中にあるなどと妄想する必要はありませんし、人をそしる必要もない。それは無益なことです。
古代史を知るとは、真実を知ること。ホラの好きな方は、ある種の文学をどうぞ。古代を生き抜いた人々のためにも、その真の姿を追及しませんか。
2025 5/15
-2025年5月14日
やはり、初っ端から吹いてしまいました。例の新刊本の「魏志倭人伝」における「(伊都国から)南へ水行20日」、「(投馬国から)ヤマタイ国へは水行10日、陸行1か月」という記録を引き合いに出して、「つまり南の方角にどんどん進んで行くと『ヤマタイ国に至る』というわけだ」と書かれている箇所です。水行、陸行について「どんどん行く」としか理解できないとは。
古代人の船旅や陸旅の、苦行のような困難さをわかっている人は、このようなことは決して書くはずがありません。今日のような豪華客船が客の排泄物を人知れず海に滝のように吐き出して進む時代とは異なり、劣悪な状態に置かれる古代の船客は、船着き場(津)に船が着くたびに下船して、水や食料を入手するなどしなければならないのです。そのため、直行=「どんどん行く」ことなどできるはずもなく、津々浦々を巡りつつ、下船乗船を繰り返すしかなかったのが実情です。これについては、レバノンのティルからスペインへの往復3年がかりの旅においては、行きに下船した地で麦の種子を撒き、帰りにそれが実ったのを刈り取って帰路の食料に当てたという記録もあるほどです(ヘロドトス)
陸行においても、今のような整備された道はなく、特に南九州のような地では、木やつる草の生い茂る道なき道をまるで獣のように、野宿しながら進むわけですから、それこそ野獣に食い殺されかねない日々を力を振り絞って乗り越えて行く苦行であって、直行などとはとんでもない話です。古代人の身になって考えれば、すぐに気づくことではありませんか。ある研究者が、実際に古代の条件で奄美山中を歩く実験をしたところ、1日7kmほどしか進めなかったということです。
また、卑弥呼の墓が「径百歩」(144m)と記されていることから、大きいと信じられているようですが、古代の「径」は円の直径ではなく縦の長さを指す語ですし、著者の陳寿も、ただ人の言うことを聞いて書くだけの人でしたから、本当のことかどうかもわからない。女王のイメージに酔って盛った表現をした可能性も考えられます。
円ではなく小振りな墓の可能性も否定できない。ともかく、縦が280mの箸墓の主とするには、144mでは勝負にならない。
それに、最新鋭の年輪年代法によって箸墓築造年次を測定したように修辞されているが、その新法を発見した教授自身が誠実に「測定の可能性」はあるが、今後精度を高めていく必要があると語られており、あの番組は何だったのか・・・実に不可思議です。また、もし番組で明示されていた250年が最新技術による年次であれば、それはC14法による測定結果とほぼ同じであるから、最新技術による必要もないか、あるいは何らかの不具合がそれ自身に内在する可能性もあると解するのが妥当と思われます。
纏向遺跡から、ベニハナやバジルの花粉が発見されたという紹介が参考になっただけに、「どんどん」行けなかったことが残念です。
2025 5/14
-2025年4月30日
いまだに、思い返すたびに涙がこぼれてきます。澄んだ瞳のリバティアイランド号。三冠牝馬。人間とは異なる、汚れのない生き物の壮絶な死・・・。生きていれば、史上最高の母馬となったであろうものを。なにしろ、その父は、早逝を惜しまれるあの天才馬・ドウラメンテ号でしたから。 ー合掌ー
2025 4/30
追記:過日、教育系メディアから取材の依頼がありましたが、現在クラスレッスンは行っておらず、ライフワークに全身全霊を傾けていますので、あしからず。
ー2025年3月31日
第一次産業は、国民生活の根幹中の根幹ですから、大切に、まず何よりもはじめに保護育成策がとられなければならない分野であるのは自明です。その彼らに悲鳴を上げさせるなどもってのほかと言わざるを得ません。そして、ついに彼らは民主主義国家の第一次産業の担い手としての自負のもとに声を上げました。我々を救えと。心底感動しました。また沿道の人々の暖かい拍手、声援を送っている姿からも、民主主義は静かに確実に根付いているのだと気付かされ、こみ上げてくるものがありました。これこそ特大のニュースです。今年の桜の下の光景を、私は忘れることはないでしょう。
2025 3/31