ー「火焔の王」の誤植についてー
<正誤表>
p32 7行目 符号→符合
p37 8行目 思燁のふりがなシプ→サヨ
p39 6行目 冒頭の「た」→だ
p52 14行目 不随→付随
p60 9行目 『北史』高麗→『北史』高麗・新羅
p131後から3行目 符号→符合
p178 5行目 ?平→削除 ?=ジョウ(漢字が入力できません)
p229 1行目 貫例→慣例
「火焔の王」ー欠史八代の謎を読み解くー 橋本ルシア
実在を疑われ、論争となっているいわゆる欠史八代。これまで被葬者とされてきた箸墓の主の正体を端緒に、トヨと孝安の驚くべき出自を論証。倭国の王暦の初期をいろどる神武と欠史八代の諸王の実像を明らかにする。さらに、上記氏族の歴史的由来を、シュメール、大月氏国の崩壊などから根源的に考察し、氏族の末裔、仁徳とタリシヒコ"聖徳太子”の実像をあぶり出すと、そこに立ち現れたのは、物部守屋討伐事変の深層、そして太子を暗殺した意外な人物だった。その男に帰因する太子の最後の実子が背負った苦しみの十字架とは?
<読者からのメッセージ>
〇 難しそうなのでどうかなと思いましたが、ふと気になる言葉があり、そこから読み始めましたが、何とかその章を読み終える頃にはこれは、あれはと気になりだし、前半を飛ばし最終章へ、そこからまた第1章に戻り読み進めていく内に現れてきました、今までにない全体像が、これですね! 感謝!
(会社員)
〇夜中に、聖徳太子のところから読み始めましたが目が離せなくなり時間も忘れて一気に読んでしまいました。そして、何となく物悲しい気分になってしまいましたが、味わい深く面白かったです。
(主婦)
ーアマゾンの愚かしい匿名レビューについてー
一般読者のために敢えてスルーせず
アマゾンの「レビュー」に悪口雑言をいう者が現れたようです。この類の方々に対しては、共通言語を持たないので、実りある議論も成立しないため基本的にスルーする方針を、私は取っておりますが、言いたい放題を許すのもどうかと思いますので取り上げることにしました。
さて、拙著のはじめで私が、書紀や古事記(記紀)上の引き延ばされた系譜はねつ造、ごまかしであって、事実はヤマトトトビが神武の皇后ホトタタラに他ならず実名はトヨであったことを諸点から論証したことに対して、記紀を盲信する方が、記紀の怪しげな系譜をぶつけて、記紀通りではないと怒り、しかも、はじめの3ページ、つまり、名のホトをキーワードとした論証の導入部を見ただけで逆上し、その4ページ以降に示されている最重要部分ーすなわち崇神朝なるものが欠史八代と呼ばれる約200年にも及ぶ長期の大和王朝のある時期に、他所で同時並行的に存在した短命な地方の「王朝」にすぎなかったことの論証(これこそが、トトビ=ホトタタラ=トヨの論証の中核をなす)も読むことなく、導入部を核心部と勘違いし、悪口雑言を浴びせかけてきたというのが、今回のレビューの真相です。私の論証は、その後何ページも続くのですから、まず全部読んでからその論証の是非を問うのが正しい態度でしょう。それなしのしかも導入部と核心部を取り違えた攻撃は的外れのヒステリーかヘイトのためのヘイトと変わるところがありません。
彼(?)が、論証部分を読めなかったのは、古事記にしがみついているからですが、それならば、全面的に古事記が正しいことをまず論証すべきです。取り敢えず、あのグロテスクな部分の正当性だけでも。つまり「大物主神が美女セヤダタラを見初めて、赤い矢に変身し、厠で大便をしているヒメのホトに突き刺さったのち、姿を現し、結婚してホトタタラが生まれた」という部分。これをそのまま信じているのですか? 幼児でも笑い転げますよ。太安万侶も品のないユーモアを発したものです。何とかごまかそうと知恵を絞り、つい地が出てしまったのでしょう。信じるのは勝手ですが、それは信心の範疇に止めておきましょう。私が問題にしているのは、信心の問題ではなく、歴史の真実ー真理、つまり知性、理性のレベルのことであって、そこに信心などを絶対的正義とばかりにズケズケ持ち込むのはお門違い、不可です。
寿命150歳ほどの多くの倭王を列記しながら、他方でニニギが長寿の精の醜女イワナガヒメを追い返したので「だから、天皇の命は長くないのである」と記したり、ニニギの降臨を180万年前とする(神武紀)バカバカしさ。因みに180万年前頃は「松山逆磁極期」といわれ、北極と南極がたえず入れ替わる不安定な地球の時代で、地上では大型動物や洞穴ライオンなどが幅をきかせ、まだ単なる長毛の生物の段階の人間は、ビクビク隠れ住むしかなかったといわれています(安田喜憲氏)から、ニニギは猿人姿で倭国にやって来たことになります。これを信じるのですか。まあ、信じるのは勝手ですが。
一見ブラックユーモアのような記紀ですが、編者らは多くの嘘に多弁を費やしつつも、御用学者とは一線を画する歴史家としての矜恃を持っていたようで、短い一言や短文、愚劣極まりない表現や論理矛盾の文の中に真実を解く鍵を残していることも事実です。時間をかけ誠実に取り組み続けているうちに、それは自ずと明らかになってきます。盲信を避け、大脳をむしばむ悪口雑言の汚れた言葉をすべて忘れて、クリティカルに取り組むこと。
安万侶や不比等らとの知恵比べは、彼らが一級の知識人であるためにかなり大変ですが、広く深く鋭利な知性で臨めば勝てます。そして、彼らも、後の世の私たちの勝利を願っていたはずです。「嘘を看破せよ。さすれば、真実が立ち現れるであろう」と。
次の問題は、「韓国語はハングルで、漢字ではないでしょ。この古代その漢字をあててタタラを表した例示がない」の件ですが、愚かです。ハングルの登場は1446年、李朝朝鮮世宗の時で、高校生用の世界史年表に太字で記されていますから、高校生や優秀な小中学生も知っているはずの事柄です。それ以前は漢字を借りて、郷札、吏読表記がなされており、特に高句麗では建国(BC37)の時から漢字を使用していたということです。そんなことも知らない者が、「タタラに豊をあてた例を知らない」などといかにも古代の文献をあさったかのように言うのは嘘です。ハングルしかないと思っている者がどうして漢字文献にあたれるのでしょうか。また「この古代」というのも錯乱しています。記紀は8世紀初めに編集されたものですから、8世紀ころの記紀が「タタラヒメ」という名をでっち上げたということにすぎません。
ところで、タタラが豊などと漢字表記されたという部分で、私が依拠した文献は李寧煕(韓国女流文学人会会長ー1990年当時)の「天武と持統」で、拙著では注として紹介していますが、この匿名ヘイトレビューはそれすら読まずに私の勝手な思い込みとしていますから、手が付けられません。
それはさておき、タタラと豊についての氏の説をご存じない方が多いと思われるので簡単に説明しておきましょう。氏によると、タタラは大きな「ふいご」のことだが、「豊」は韓国式音読みで「プン」であり、「ふいご」の意味の韓国語「プルム」「ブルム」を吏読風に表記したものだということです。さらにまた、私は「豊」は日本語の豊後などでは「ブン」と読まれるので上記「ブルム」の早読み「ブム」「ブン」と同音となる点からも裏付けられると考えています。
拙著には、この韓国語のみならずミンチア語、ミャオ語、ヤオ語、タミール語、シュメール語なども続々と登場しますから楽しいですよ。いや難しい!という声あり。そうか、ハハハハッ。
2019 7/28 著者記す
<読者からの質問にお答えします>
〇「諸王らは何語で話したのですか?」のご質問
彼らにとってコミュニケーションは大変容易だったと考えております。なぜなら、まず第一に、敵対する王に対しての直接の会話はなく、常に書状を使者に届けさせる形をとっていたからです。かくかくしかじかの内容で書くようにと尚書部(書記局のような部)に命じれば、プロフェッショナルな官吏が、何語にでも見事に対応し、「倭人伝」にある「使訳」つまり通訳を連れた使者が、さっそく命をかけて届けてくれます。同盟する諸王との対話も、必要なら通訳が従者としてはべり、補佐しますから問題はありません。
第二に、そもそも東洋の諸王のみならず武人は、一級の知識人であり、幼少時から「詩経」をはじめとする万巻の中国書を学んでいたからです。知性のないのが騎士の誇りという西洋に比して、東洋の武人は文武両道の知識人でした。ヤマトタケルとみられる慕容儁は、40篇以上の著作があり、その父の皝(垂仁と推定)も、勇気、知略はもちろん学問もあり、特に天文に秀でていたといいます。諸葛孔明しかり、聖徳太子も勝鬘、法華経等を講じ、天皇記、国記などを著したともされています。大臣で終わった藤原鎌足の愛読書も、前10世紀の太公望が著したと伝えられる「六韜」であったといわれています。それが全編、人を欺く術の兵書であったことは、なるほどもっともなことと思われます。
文武両道は東洋の武人の当たり前の姿でした。その上に、彼らは自分の側に知識人を集め顧問としていました。太子のブレーンには、ローマ人、アラブ人、ペルシャ人などもいたということです。「荒酒淫色とめどなし」という最悪の反知性で名を残す石虎ですらクチャから仏法僧の仏図澄を招き、側に置いたとされています。
第三に、習俗的にみても、平和的な同盟のみならず、戦いの結果の和親の折でも、必ず婚姻がなされておりました(それ以外は皆殺し)。 そうした妃は侍女を何人も連れて嫁いできましたが、当然その中には語学堪能な女性も含まれていたはずです。事情は異なりますが、卑弥呼の侍女は1000人といいいます。しかも、新しい言葉は2世代で修得されるということですから、単純に考えても、子の代にはバイリンガルとなり、それが果てしなく繰り返されるうちに、何か国語も身につけてしまうわけです。因みに、太子=タリシヒコの後宮には700人ほどの女性がいたと記されています。
第四に、本書では、系譜は細切れになっていますが、私のオリジナル原稿では、すべては一つの相関図、つまり親戚関係をなす形となっていました。しかし出版社側からの、簡潔にという要望でこのような形になってしまったわけですが、元々の私の原稿の形ならば、諸王がすべて一つの血の世界を構成しているのだということが一目瞭然ですから、何語で会話したか、という疑問も生まれなかったかもしれません。
橋本ルシア ‐月華独舞‐ Baile solo bajo la luna DVD
2010年6月フラメンコ舞踊家・橋本ルシアの劇場での1週間に渡る
非公開舞台をビデオカメラ数台によって撮影したDVD
※3月パリに送る。
「月華独舞」についてーパリ評ー
〇日本伝統芸術にある幽玄のような感性を感じさせられました。音楽も意外で、
初めの音楽はワグナーのトリスタンとイゾルデの中にある序曲を思い浮かべさ
せられましたが、その後、最終部分以外は、日本の伝統音楽的な要素が踊りと
マッチして、幻想的な雰囲気が描かれてとても魅力を感じました。踊り手の内に
込められた情熱が徐々にリズムに乗って盛り上がるプロセスも素晴らしいと思
います。スペインの情熱あふれるものと日本の美を織り込んだ創造芸術。
〇映像技術も見事。Lucia Hashimoto の踊りは歌舞伎、能などを彷彿とさせ、
その手や腕の動きから東南アジアの踊りさえ思い浮かべさせられ、引き付けられた。
ー国内評ー
〇稀に見るフラメンコ映像詩 〇ただ、すばらしいの一言 〇凛とした中に秘め
られた悲しみ、それでいて決して重々しさを感じない何とも言えない心地よさ。〇美しい
橋本ルシア ‐風が見える時‐ Cuando he visto el viento DVD
バイレ
橋本ルシア
ホアン・オガジャ
カンテ
ダビ・ラゴス
メルチョーラ・オラテガ
アギラール・デ・ヘレス
ギター
アルフレッド・ラゴス
「フラメンコ、この愛しきこころーフラメンコの精髄ー」 橋本ルシア 著
フラメンコ史上初の本格的指南書!
ジプシーとは、ノリスとは、「ミ」の旋法とは・・・・・。
現役の実力派舞踊家による、初めての研究書。フラメンコの本質をわかりやすく解き明かし、実践上の指針を明確に提示した、フラメンコを愛するすべての人に捧げる舞踊史の金字塔!
■本書の主な内容
フラメンコの語源について/ジプシーとフラメンコ/ジプシーの起源/フラメンコ以前?アンダルシアに伝わる歌や踊り/フラメンコの歴史/フラメンコの要素と形式/カンテとバイレ/バイレの演じられ方、ならびにフラメンコの実践的本質 etc.
橋本ルシア プロフィール
東京大学文学部哲学科卒業。来日中のメルチェ・エスメラルダ、ラ・トレアらに師事。82年、実験的創作フラメンコの連続8回公演を行う。83年スペイン留学、マノレーテ、エルグィード、ロシオらに師事。84年、橋本ルシアフラメンコ舞踊研究所開設。主なリサイタルに「青の幻想」「アルバセーテの匕首」「アイ・アモール」「エータ・カリーナ」(2003年12月)など。
◇フラメンコ舞踊家・研究者、入門初心者、一般の愛好家に必携の一冊◇
●判型 四六判上製 416ページ
●価格 定価2,835円(本体2,700円+税5%)
●発売 株式会社 水曜社
東京都新宿区新宿1-14-12
TEL(03)3351-8768 FAX(03)5362-7279
水曜社 : http://www.bookdom.net/suiyosha/1400yomim/1431furame.html
≪書評≫
音楽評論家・日本フラメンコ協会会長 濱田滋郎
橋本ルシアさんの舞台は申し訳ないことにかなり以前一、二度観ただけだが、東京大学哲学科卒という異色の経歴を持つバイラオーラとして、活動をつづけておいでとは認識していた。このたび上梓された、400ページに及ぶフラメンコ論「フラメンコ、この愛しきこころ」(副題「フラメンコの精髄」)を一読して、アーティストの余技などとはとても言えない、探究・文献渉猟の広さと深さに支えられた、しかもオリジナルな思考と洞察に満された所論が展開していくことに讃嘆をおぼえた。2003年、本書の原型となった論文「フラメンコ芸術の精髄」によって博士号を取得したとのことだが、文筆家としてもすでに一家をなした人の、論法に狂いなくしかも味わいに富む筆致である。章立ては、「"実践的"問いかけの意義」と題された序章につづき、1、フラメンコの語源について、2、ジプシー、3、フラメンコ以前ーアンダルシアに伝わる歌や踊りー 4、フラメンコの歴史、5、フラメンコ実践論ーバイレから見たフラメンコの実践的本質ーと5つの章が設けられ、終章「残された問題」で締めくくる。
どの章もそれぞれ熟読に値するものだが、第2章における、果たしてジプシー(註、この著者は昨今進められている「ロマ」への言い換えを断乎拒否するかのように「ジプシー」で通している)は日本に渡来しなかったのだろうか?というテーマにまつわる考察ほか、「日本人とフラメンコ」を見究めるための新しく、かつ必要な視点が示されていることを特筆したい。また、第3章において、フラメンコの基本をなす「ミの旋法」の原点に、古代ギリシャの悲劇の調べである「リノスの歌」を想定しているのは、傾聴すべき卓見に違いない。けっしてたんに思いつきの仮説として提出するのではなく、多くの資料を揃え、説得力充分の推論を繰りひろげているのである。
そして最も独創的で、読者を惹きつけるとともに深く考えさせる力に満ちているのが、第5章である。バイレの実践者であって初めて感じ、思い、かつ伝えることのできるものごとを、著者は語る。とりわけ、従来、不動の真理のように言われてきた「フラメンコはカンテが中心「「カンテが先」という考えに―カンテを深く尊重しながらも―あえて異を唱え、カンテとバイレの本質的な一体論、等価値論を述べるその語調には、うなずかざるを得ないものがこもっている。この本は冷静な分析の書というには熟すぎる底流を通わせており、そこが「フラメンコへの愛の書」たるゆえんで共感をそそるのだが、この第5章では、底熟が表面に噴出する趣で、いささかアグレッシヴにもなる。しかし、ジプシー魂、フラメンコ魂への果てしない愛惜、「日本人の自分もそれを共有できる」という自覚と喜びとに支えられたこの名著が、今後長く大きな意義を保ちつづけるであろうことは疑いない。まるで演歌のようなこの本の題も、読後は真にふさわしいと思える。
(パセオ2005年2月号より)
※この著作が上梓された2004年にアントニオ・ガデスがマドリッドで亡くなった。1987年にアントニオ・ガデスが「血の婚礼」(原作 ガルシア・ロルカ)の本邦初演を行った時、それに先立ち朝日新聞紙上で逢坂剛氏(作家)とアントニオ・ガデスについて対談をする。
全労済ホール スペース・ゼロ提携公演
出演
橋本ルシア
ホアン・オガジャ
アルフレッド・ラゴス
ダビ・ラゴス
メルチョーラ・オルテガ
アギラール・デ・ヘレス