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2022年1月

  受験に思うー岡山、15歳の春

 東京発の「ひかり」は、大きな左カーブを描いて、やがて岡山駅のホームに滑り込んで行きます。その頃に、左の車窓に見える小山が操山で、私の中学校は、その北側の裾野にあり、西の裾野には私の高校が少し様変わりした姿ではありますが、今も変わらず佇んでいます。その辺りは、かつては、町が田園に溶け込んで行く刃境(はざかい)、いわばマージナルな地で、住宅と稲田や小川が混在する、私にとっては何かワクワクするような、約束の地の風情を醸し出していました。そのようなことをひっくるめて、私は「ロケーション」と呼んでおり、それこそが私の学校選びの必要十分条件でした。

 中学校の東と北側は稲田、南は小山ですから、季節は、色彩と音のシンフォニーさながらに、青々とサワサワと風になびいていたと思えば、黄金色に輝きわたり、早春にはレンゲ色に染まる稲田や、優しい春風のささやきに、小雨の中の蛙たちの満足げな歌声、霜に震えながらも、凛と立つ小さな紫色の野菊の花などとともに、めくるめくように移り変わって行きました。同窓生に聞くと、荒れる問題校だったということですが、私に害をなす悪童など一人もおらず、二階の非常階段から、刈り取ったばかりの稲の山の上に次々と飛び降りて、「お前らは、立っとれ!」と、怒り心頭煮え立ったやかん頭のじィじ先生に叱られ、教室の奥に一列に並ばされてうつむく男子生徒らを、くっくっとこらえきれない笑い声をもらしながら、盗み見る女生徒たちの、のどかな日常しか記憶には残っておらず、私はといえば、丸善で原書を取り寄せるほど、ぞっこんとなった「赤毛のアン」の世界を、ただひたすらに、存分に生きておりました。もちろん知的好奇心の旺盛さから、中3の時には「資本論」なども読み始めましたが、その冒頭第一節の意味を論じるほどの段階ではなかったことも、当然と言えましょう。子供に、「下部構造」、「上部構造」の実感など、あろうはずもなかったわけですから。

 さて、高校です。入学して間もない5月に「事件」は起きました。老いた黒羊のような顔の漢文の教師から、漢詩を作ってくるよう宿題を出された私は、大喜びで、嵐の海に乗り出す海寇(かいこう)の五言絶句を作出しました。それは自分でもほれぼれするような出来でした。しかし、翌週の漢文の時間に、かの老教師が宿題の漢文を板書するよう命じたのは、残念ながら私ではなく隣席の女生徒でした。ところが彼女は宿題をやってきておらず、小さな鋭い声で「貸して!」と発して、私のノートをひったくり、何食わぬ顔で、私の漢詩を書き写し戻って来ました。当然にも、老教師はその詩をほめちぎり、「君、どこの中学の出身?」と聞きました。彼女が〇中と返答すると、「さすが〇中」とさらにほめちぎりました。その瞬間、私が憤怒の河を一気に渡ったのは言うまでもありません。〇中は、当時、県下唯一の試験のある中学で、私も小6の時、担任に受験するよう勧められたのを、先の「ロケーション」条件と、遊び友達と別れる悲しさの二点から、断った中学でした。そこに、こんな卑劣な子がいたとは。しかし、それはただの驚きに過ぎませんでした。許せなかったのは、本来は注意すべき生徒をほめちぎり、挙句の果てに「さすが〇中」と発した老教師です。何という差別意識。こんな愚劣な教師に3年間も教えられ、「東大に合格しました。ありがとうございます」というのか。即座に私は一浪することを決意しました。私一人で勉強すれば、東大など一年で入れる、そう考えた私は、三年間は教師を無視し続け、決して力を示さないことにしました。その直後の一か月間、授業中は天井を見続けたため、「エル・グレコ」とあだ名されましたが、あの天上を見上げるマドンナの絵のことか、さすがに適確だなとうなってやりすごしました。しかし、首が痛くなって、エル・グレコは止め、静かに潜行することに戦術をかえました。

 当時は、すべての教師を信じられず、心で牙をむいていましたが、元来学ぶことが好きな私は、ふと気づくと授業に夢中になっていて、「あっ、いけない」と「初心」に帰ったりもしたものです。また、ふっと授業を抜け出し、一人でベンチに腰掛けて、どこまでも広々とした運動場の桜の老木群や、奥の林に心を預けたりしたこともあります。高校の教科書はすでに中2の時に従姉が捨てるというのをもらいうけて、一人で学習していたことも、気ままな反抗的な振る舞いに拍車をかけたかもしれません。

 ともかく、3年間は、授業を無視して好きなことに力を傾けました。世界文学全集、日本文学全集の読破も楽しく、トーマス・マンの「魔の山」だけは初めの100ページにてこづったものの、101ページ目から突然魅入られたように一気に読んでしまったり、気分に任せて油絵を描き、祖父の遺品のSPレコード(実に良い音)を聴きまくり、また授業後は、人っ子一人いない操山を探索。小山ながら複雑な形状の山の谷間には水晶谷などもあり、そこから大岩群を一気に飛び駆けって下山する。まるでニンファドーラのような私は、孤独ではありましたが、平気でした。私には本という友人が何人、何冊もあったからです。本は、記されていることが真であれ、偽であれ、吟味すれば必ず偽でさえ真に転成できる。その意味で、自身をごまかすことのない、また、私のロゴスとパトスを問う誠実な友人なのですから。

 なお、私の高校は親切な体制が構築されていて、一浪も放擲せず、「補習科」という形で在校生同様の中間・期末テストや統一模試を受けられるようになっており、大学受験手続も代行してくださった点は、大いに感謝しております。生活が乱れないように、また自力学習の効果を判定するためのものとしても、その簡単すぎる授業も受講しましたが、中には夫の死後、医師になることを決意して通ってきていた女性もいて、いろいろ感動することもあったことは書き加えておきたいと思います。

 自力学習の成果は6ー7か月後には明確となり、統一模試(愛知ー鹿児島)の主要5教科では断然のトップとなって、東大合格ー入学手続きは入学式頃でいいかと岡山でのんびりしていると、東大当局から早く手続きを済ませてとせかされ、慌てて上京するなどというコミカルな失態を演じながらも、15歳の春に決意したことは一応やりとげましたが、しかし、その頃には教師への憤怒もどこかに失せてしまっていました。

 今から考えると、無駄な高校時代だったかともおもいますが、それでも、教師に頼らず、一人で学び、考えることを決め、そのためできるだけ多くの知識を得ることに努めると同時に、未熟な自分が誤謬を犯さないように、自分の考えに瞬時に、あらゆる角度から批判を加えてみるーいわば自分との論戦の習慣を獲得し、また、それでも間違えた時には総括し、どこがどう、なぜ誤ったのかを考察し、正し、乗り越えて行くというロゴスを体得したという点では、必要悪だったかとも考えております。

 とは言え、私の高校の教師の大半は、あの老教師のようなタイプではなく、中には心が通じ合った方々もいらしたことについては、この次に書いてみたいと思っています。

 

                               2022 1/30