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2024年2月

  私は、幼児言語をユーモアや皮肉以外に、大人に向けて遣うのは「媚び」の臭いがして好みませんから、敢えて豊かな意味満載の難解な言葉を用いることが多くなります。

 さて、労働者。まだ青い学生の頃のことですが、私は父に「労働者を搾取してはいけない」と言いました。当時、父は小さな会社を経営していたからです。すると、父は「その通りだ」といって、自分のギャラを社員並みにドーンと落としました。

 また、本当に人の良い父は、若造の私から見ても「口先だけのヘラヘラ」と思われる営業社員などを家に連れてきて、楽しそうに話していました。

 さらに、岡山の私達のいる実家に、夏や正月休みで帰ってくると、東京の社に戻るのを一日一日と延ばし続けるのが常でした。私たちの大喜びもつかの間、ついに父が東京に戻る時には、岡山駅のホームでその首にかじりついて、行くなと泣く足の悪い弟を引き離すのに大わらわの内にあっけなく別れの場の幕が下りました。残された私たちは、その夜は枕をぬらし、翌朝は泣きはらした顔を互いに見なかったことにして、各々の日常へと戻っていったものです。

 そんなこんなで、当然にも父は何度も会社をつぶし、おかげで私は社長令嬢になったり、失業者の娘になったり、大忙しでしたが、いやだと思ったことはありません。むしろ、「その通りだ」と言った父を、さすが私の父親と誇らしく思ったりしました。と同時に、私は自分で自分の首を絞めたかもと、一瞬ですが背筋が凍った覚えもあります。

 戦時の高校時代に生徒会長をしていた父は、学寮問題でストライキを主導したかどで退学除籍となったということですから、なかなか苦しい人生だったようですが、哲学者への夢は捨てきれなかったのか、なぜか京大の大学院でフィヒテなどを教えていたことがありましたが、父の机と椅子だけが廊下に置かれていたということです。涙ながらに、そのつらい昔話を私に話す父に、かける言葉もない私も、当時は迷いに迷う道に紛れ込んでいたのですから、似た者親子ということでしょうか。迷いは、生きるに足る人生とは何かを探しあぐねていたことに尽きます。就活など考えもしなかった・・・。何をやっても食べていける自信はあったが、生きるに足る人生も見出せないまま生きていくなど、人間として恥ずかしい、そんな思いをかかえ放浪の旅を続けたあの青い時代。九州南端の夜汽車で向かい合わせた酔っ払いの老人が何かと話しかけてくる。その酒臭い息にくらくらしていると、「ねえちゃん、酔っぱらってんのか」と面白がる。あなたのせいですと言いたいのをぐっとこらえて、関根弘の詩集に目を落とした、あの夜明け前の暗い時代。

 賃上げ、就活、裏金、ジェノサイド、暗殺、などの字が踊る今よりは、それでもずっと救いがあったのは、闘志を燃やし続ける気概が、まだ社会の底辺に残っていると実感できる時代だったからでしょう。そして今は・・・私は人々を信じます。

                   2024 2/21