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2024年3月のNHKスペシャル「古代史最大の謎ー邪馬台国」の問題点

  いまだにこのようなレベルなのか、3月のある晩、コーヒーブレイクとしてTVをオンすると、深夜のNHKスペシャル「古代史最大の謎ー邪馬台国」の再放送の映像が流れていました。卑弥呼などさほどの者ではないと考えている私にとっては、スルーかとも思いましたが、スペシャルの番組中には非常に優れたものもかつてはありましたから、そのまま見続けることにしたのです。見終わった後の感想は、先ほどのようなもので、放置しておこうと思いつつも、時が経つほどに、不愉快な気分が増してゆくので、この辺りで一度、この気分の源を明らかにしてみようと思い、書くことにしました。

 卑弥呼と邪馬台国と箸墓を一つながりとすることと、富雄の遺跡から出土した蛇行剣の紹介が、その番組のテーマとなっておりましたが、問題は邪馬台国畿内説と箸墓の主はヒミコの説の方で、まず、卑弥呼の死を248年とし、箸墓造営を250年と明記していた点について述べたいと思います。

 箸墓造営を240から260年の間とする説が出されたのは2009年5月30日の日本考古学協会総会のことで、あるチームが炭素14年代測定法を用いてそのような結果が得られたというものですが、炭素14法は、1998年に和訳が出版されたシェリダン・ボウマンの『年代測定』という書によって、不確実で絶対年代といえるほど信頼性の高いものではないとされている方法です。炭素14法が成立する前提は、放射性炭素同位体炭素14の濃度が過去から現在(1950年を現在と設定されてる)までは、一定でなければならないということですが、実は過去一万年の間にそれが8%も変動していることがわかり、その前提が崩れ去ってしまったわけです。その指摘から11年も経っていながら、何のためらいもなく炭素14法で出された結果を鵜呑みにして提出された「240から260年」説自体が信頼がおけないのは当然ですが、それにもかかわらず、さらにその上250年と断定されていました。

 古代に関する知識からだけでも、その年代測定には大幅なプラスマイナスがあるはずだとわかります。ヒミコや箸墓の時代は、あの縄文の海進で90mも海面が上がった後、少しずつ潮位が下がりながらも、丹波養父大屋や舞鶴などは「泥海」や「泥真名井」であったことが、大屋の御井社社伝や丹後風土記逸文に記されていますし、315年に渡来したと書紀に記されている天日槍が、城崎の円山川河口を開拓したという伝承もあることから、どんなに大変な気候変動と人々や動植物の生態系の変化があったかがうかがい知れます。

 崇神10年9月の「こののち」条に、箸墓造営記事がありますが、崇神10年は296年に該当しますから、箸墓の造営は296年以後であることがわかります。それを番組が250年と断定したのは、ヒミコの没年248年に非常に近いと思わせ、彼女の墓だと思わせたいためでしょうが、それは誠実さに欠けたふるまいです。また、ヒミコは魏志倭人伝では247年に張政が渡来したとき「以(すでに)死」として記されていることから、247年に死去したのが真相といえます。

 版築という工法についても、魏の特殊技術のような説明がありましたが、中国ではすでに殷の時代から用いられていましたし、版築といえば秦氏の特殊技術ですから、そちらの観点が有益でしょう。

 次にヒミコが若い女性で、戦国時代の野盗のような諸豪族と対面で議論をしている映像が作られていましたが、倭人伝には、彼女は王位についてから目通りした者はほとんどいなかったとありますし、また173年に新羅に使者を送った時を13歳と仮定すると、魏に内通した238年ころにはすでに65歳ほどとなります。ドラマなら許される範囲でも、真実を問う番組では不可でしょう。

 また邪馬台国畿内説をとっていましたが、魏志倭人伝には、卑弥呼の女王国=邪馬台国の北にあるという20国の記述の後に、「女王国から東に1千余里の海を渡ると別の倭人の国があり、さらにその南に侏儒国がある」とされています。書紀を一度でも読んだことのある方はすぐにお分かりになると思いますが、その侏儒国とは、神武即位前紀の己未年2月条に「高尾張邑に土蜘蛛あり。その身短く、手足長し。侏儒(小人)に似たり」とされている大和の高尾張邑です。小人とされていますが、身=ボディが短いだけで、手足が長いのですから、長スネ彦(大人)と同じ種族の、よりスタイルのよい氏族を指してると考えられます。小さいと強調することから、少彦名(すくなひこな)の一族(子孫)とみるのが妥当と思われます。

 女王国から東に1千余里の国々の南が大和の高尾張邑だというのですから、女王国=邪馬台国が畿内の大和にあったということはありえません。邪馬台国=九州説があやしいと思わせるために、投馬(つま)国(西都原とみられる)からまっすぐ直線で「水行10日陸行1か月」と図示されていましたが、水行が直線だとどこに記されていますか。奴国から不弥国へ。そこから水行20日、とされていることについては、豊後水道を大きく湾曲させた図がよく使用されますから、水行10日も同じこと。大隅半島にそって回り込むと、隼人や霧島市あたりに上陸できます。そこから陸行1か月というと、山鹿、玉名あたりになります。玉=瑞(大漢語林)=みず=水=すい=たい(上記)=台です。つまり、山鹿と玉名のあたりが邪馬台国だと地図や地名が自ずと語っていることがわかります。それはともかくとして、卑弥呼の国の邪馬台国は畿内ではないことだけは確かです。(北の20国も私は特定しています)

 もう一つ、蛇行剣について。東南アジアのクリス剣に似ていますが、時代が異なりますから、不可でしょう。富雄丸山古墳あたりは平郡氏の地で、仁徳時代の大臣平郡木莬(つくの)宿祢がその代表者といえますが、彼は武内宿祢の子で、武内宿祢の父という「屋主忍男武雄心」(やぬしおしおたけおこころ)を解読すると大足彦となりますから、慕容氏の傑物とわかります。慕容氏のレガリア(王のしるし)は七支刀(ヒイラギノヤヒロボコ)ですが彼は倭王になっていないので、そのトーテムの蛇を模して、彼かその一族の者が蛇形の長剣を作り、祖神を祀る祭器かつ権勢を誇る象徴としたのではないかと思われます。剣に年次が記されていればそのうち誰のものかはっきりします。

 古代についての誠実な番組が極少な中での、スペシャルの歴史班の取り組みに対しては、今後の健闘を祈りたいと思います。

                     2024 4/16

 ※機種が古いのか、今までの操作と違って草稿中のものが一部アップされていたようです。2024 4/16 15:45以降のものは決定稿です。最終稿 校了済(4/19)